☆伊豆・小田原旅行記その3☆

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宿泊前日までの天気予報では台風17号は本州を縦断の見通し。
静岡も未明から雨-という予報でした。

が、しかし、明けてみれば空は薄曇。
朝食を運んできてくれた、仲居さんも
「天気は何とかもちそうな雰囲気ですね。」

せっかく歴史上の名所があるのに、と後ろ髪を引かれながら、小田原に向け電車に乗ることに。
車中、先程話に出た「疾き雲のごとく」のシーンを思い出します。

―小田原城主 大森氏頼とのかかわりから小田原を攻めるまでの、早雲の話もあったな―

あらすじはこのようなものです。

小田原の名将 大森氏頼は余命いくばくも無いときに、盲目の仏師 玄舜を招聘する。
大森氏頼の依頼は箱根に祈願寺を建て、神仏混交像を作り、西方(西の新興勢力伊勢宗瑞)に睨みを利かせて欲しい。
寺建立の寄進は自分の生存中は続けるが、跡継ぎは信仰心が薄い。
自分の死後、我が家から寄進が絶えても、何とか方策を見出し、仕事をまっとうして欲しい。

大森氏頼の死後寄進は途絶え、その日の生活に困窮するようになりますが、仕事をまとうするため、玄舜は新たな当主の後見人である氏頼次男の藤頼に寄進を依頼しますが断られます。

藤頼は寄進を断る見返りに玄舜に領国内での勧進(社寺造営のための募金活動)を許可します。

街頭で玄舜の勧進を見た伊勢宗瑞は多額の寄進をし、仏師が日頃が勧進していては仏像の作成が進まないではないかと問いかけます。
宗瑞は伊豆で盲目となった修行僧を玄舜に預けるので、一部を仏師の見習いとし残りは勧進聖としてはどうかともちかけた。

宗瑞が箱根の山を越えて関東に進出するためには、小田原の大森氏が障害となっていたのですが、今は相模国内の情報が乏しい。
結末は玄舜に預けた勧進聖は乱破(忍)で、相模国の内情を調べさせ、内部分裂を図り大森氏を打ち破り小田原の地を手に入れる、と言うものです。

 

このようにして関東進出の機会を得た北条早雲こと伊勢宗瑞の一族は北条氏(鎌倉執権の北条氏と区別するため後北条氏とも呼ばれますね)は五代にわたり小田原を拠点とします。

 

今手元の「小田原城関係略年表」を見ています。
1496年 北条早雲、小田原へ進出
1561年 上杉謙信、小田原城を攻める (確かこの後鎌倉の鶴岡八幡宮を訪れていたんじゃないかな)
1569年 武田信玄、小田原城を攻める
1590年 豊臣秀吉の小田原攻めにより、北条氏滅亡

上杉謙信、武田信玄という戦国時代随一の名将に攻められても陥落しなかった、難攻不落の小田原城とはどのようなものだったのでしょう?

 

 

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これは小田原駅の遊歩道から撮った小田原城の遠景。

その後ろにそびえているのが箱根の山。

童謡「箱根八里」に以下のような歌詞があります。

♪~ 箱根の山は、天下の嶮(けん) 函谷關(かんこくかん)も ものならず
萬丈(ばんじょう)の山、千仞(せんじん)の谷 前に聳(そび)え、後方(しりへ)にささふ
雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす 昼猶闇(ひるなほくら)き杉の並木~♫

小学校の学芸会の芝居の時に箱根の関所シーンで挿入される歌だったのですが、今でも覚えているんです。

このように陸路としては、急峻な山に背後を守られた要害の地なのです。

(頼朝が選んだ鎌倉も三方を山に囲まれ、一方は海に開けています。守るに易く攻めるに難い。万が一には海路から逃亡できる絶好の地だったのでしょう)

 

 

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ここはお堀から二の丸へ向かう学橋

 

 

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馬屋曲輪から二の丸に通じる場所の銅門

 

 

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本丸の正門にあたる常盤木門

 

 

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天守閣

この時空はほぼ快晴

天守閣内の歴史資料展示を見ること30分ほどで、外は土砂降りの雨に。

 

 

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これは天守閣最上階からの展望風景。

まだこのときも強い雨が降っています。

城郭の先に海が見えるのですが、お分かりでしょうか?

海路もすぐそばにあり、天然の要害に挟まれた要所なわけです。

 

「NHK大河ドラマに北条五代記を!」という垂れ幕がかかっていましたが、なるほどそれも面白いかもしれません。

旅先に行って初めてその地の出来事を知るのも良いのでしょうが、事前に色んな事柄を調べておいて、

その地に訪れるともっと楽しめるのかもしれません。

 

さて、手元の「小田原城関係略年表」では、

1590年 豊臣秀吉の小田原攻めにより、北条氏滅亡

となっています。

私も長年そうだと思っていたのですが、実は違うんですね。

北条氏第4代当主 北条氏政は切腹、若い第5代当主 北条氏直は高野山に蟄居。

この謹慎中に病没し、子がなかったことから嫡流が途絶えたのですが、その叔父の子氏盛が慶長5年(1600年)に家督をついで、1万1千石の河内狭山藩が立藩され明治維新まで続きます。

この狭山藩とは、今の大阪府大阪狭山市

南海高野線の「狭山遊園駅」があったところです。

(今は狭山遊園は閉園して大阪狭山市駅となっているようです)

私の父は定年までこの狭山にある会社で勤め上げた関係上、私はこの狭山遊園の隣町に小学校低学年の時に半年間住んでいたことがあります。

なので、おぼろげながら狭山公園のことを記憶しています。

 

今回の旅行を機会に、北条早雲こと伊勢宗瑞から小田原北条氏五代の歴史を辿っていくうちに、

その後の北条氏が連綿と続き、子供の頃住んでた隣町に藩屋敷があったとは思いもよりませんでした。

旅も深く掘り下げると、色々楽しめるものなんですね。

 

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