さて、ここ10年近く司馬遼太郎を筆頭に数多くの歴史小説を読んできた私は、メジャーになりすぎた戦国期
武田信玄、上杉謙信、毛利元就、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康・・・辺りの時代よりはその少し前の時代に最近興味があるのです。
で、前回のブログ記事でご紹介した「疾き(はやき)雲のごとく」 北条早雲の物語を旅行とは無関係に読んでいたわけです。
宿泊翌日旅館に置かれていた伊豆長岡温泉の観光マップを見て、大変驚いたわけです。
「韮山」と「伊豆長岡」を結ぶ鉄道が伊豆箱根鉄道駿豆線
韮山駅の右斜め上にある小高い山に韮山城跡があります。
ここが北条早雲こと伊勢宗瑞が堀越公方の足利茶々丸を自害させ、その後関東進出の拠点にした城です。
(いわゆる、北条早雲こと、という表現なのは伊勢宗瑞は北条氏を名乗っていないからなんですね)
その下に石碑のようなマークがあるのが「蛭ヶ島」ここはかの源頼朝が流罪として流されていた地です。
大河ドラマ「平清盛」では岡田将生役の源頼朝が庵を結んでひたすら写経していた場所ですね。
伊豆箱根鉄道駿豆線と平行に併走している川が「狩野川」
その中間点に「守山」という地があり、ここが北条政子産湯の井戸がある地です。
その左には成福寺があり北条氏歴代の墓があるそうです。
その右には願成就院があり、ここで足利茶々丸が自害させられたとされています。
まさに先日まで旅行とは無関係に読んでた歴史小説の舞台に偶然?到着してしまっている。
(というか、先に決まってた旅行先がどこなのか知らずに、偶然、その地に縁のある小説を読んでいたわけです)
伊豆長岡駅に着いたとき、頼朝や政子のキャラのポスターが街のあちこちに貼られていたわけです。この地は二人が出会い、結婚し、北条一族という後ろ盾を得て、挙兵できたエポックメイキングな土地だったわけです。
これは宿泊翌日の朝に旅館すぐ脇の土手から撮った狩野川の風景。
12世紀平安時代ではもっと草深い土地だったことでしょう。
流罪として京都からこの地に来た当時の頼朝の気持ちはどのようなものだったでしょう?
今回の伊豆行きは電車で2時間近くかかるから、何か文庫本でも持って行こうと思って、東海道線の中で読んでいたのが、司馬遼太郎の「街道を行く 夜話」
まさに三島に差し掛かろうという時に、読んだのが「裾野の水-三島一泊二日の記」
シンクロニシティを感じさせられたのですが、伊豆に関する司馬遼太郎の文章を引用しましょう。
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三島も、伊豆半島全体もおもしろい。
伊豆国は関東八カ国に属さないが、「関八州」とよばれる広大な地に対して、屏風(箱根がそうだといってもいい)のかげを構成しているという面白さがある。
源頼朝は伊豆で挙兵することによって関東を得た。
また、北条早雲も、室町の混乱期に京都から来た。かれは町内の世話役のような小まめさで、伊豆の国人や地侍、あるいはただの農民たちの面倒を好く見、やがてかれらの心を攬って、関八州を征服した。早雲は戦国大名のハシリをなした男だったし、また”領国大名”という、人民の面倒を見る形態としての大名の型を最初につくった人物でもあった。早雲の民政ははるかなのちの江戸期の大名たちでもそれを越す例がないともいわれている。
伊豆は面積が小さい上に、山多く、川すくなく、農耕面積もせまくて、人口が多くない。そういう土地が、史上、二度にわたって関東独立の跳躍台をなしたのである。その跳躍のための脚のばねをつくったのは、頼朝のときも早雲の場合も、伊豆のひとびとだった。このおだやかな伊豆の地に格別の反骨の土壌があるとはおもえないが、ともかくもこの地は二度にわたって日本史を変えるはたらきをした。そのことをおもうと、地理的なものに玄妙さを感じてしまう。
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ここまで書いておきながら、この土地をゆっくり見て回れたかというと、否です。
台風が迫っていたからです。
途中で東海道線が止まったりしたらイヤなので、取り急ぎ小田原まで戻ることにしました。
(小田原なら東海道線よりは運行中止になりにくい新幹線もあることですし・・・・)
またもや、長くなりました。
つづきは次回に。